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第三話 偶然は三度続かない

Penulis: 海野雫
last update Tanggal publikasi: 2026-04-03 11:00:34

 日曜の朝。

 真尋は洗ったプラスチック容器を紙袋に入れて、晃の部屋の前に立っていた。

 インターホンを押そうとして指を引っ込める。もう一度伸ばしてみて、また引っ込めた。容器を返すだけだ。なにかあるわけがない。

 そうわかっているのに、ドアの向こうにいる男の顔を思い浮かべた途端、指が動かなくなる。メガネの奥のやわらかい目。「もっと知りたいな」と囁いた声。廊下であの声を聞いたら、また耳が熱くなるに決まっている。

 だめだ。余計なことを思いだすな。

 五分ほど廊下で悶々としたあげく、真尋は覚悟を決めてインターホンを押した。

 けれど、反応がない。壁越しにいつも聞こえる生活音も、今朝は聞こえなかった。日曜の早朝だし、出かけているのか、まだ寝ているのかもしれない。二度も三度も押すのは非常識だ。真尋は鞄からメモ帳を取りだして、「ありがとうございました。おいしかったです。柊」と書いて紙袋に入れ、ドアノブに下げておいた。

 エレベーターに乗り込んでから、自分の字が雑だったことに気づいた。まあいい。読めれば。

 仕事に向かう電車の中で、ぼんやりと考える。

 おかずを作りすぎたとしても、隣の部屋の住人におすそ分けするだろうか。きんぴらやひじきなどの煮物類は数日は日持ちする。冷凍だってできるのだから、自分だったら疲れて帰った日用にストックしておく。

 それなのに晃はわざわざ分けてくれた。しかも全部おいしかった。真尋の好みに合っていたのは偶然だろうけれど、あの味付けのセンスはたいしたものだ。

 なんとなく、そのことが引っかかった。

 仕事帰り、近所のスーパーに寄った。朝食用の食パン、牛乳、卵をかごに入れ、惣菜コーナーを物色する。けれど、昨日の晃の手料理を食べてしまったせいか、パックに入った煮物やサラダがどれもぱっとしない。結局、レタス、きゅうり、トマトのサラダ用の野菜だけをかごに放り込んだ。

 明日は仕事が休みだ。ゆっくり起きて、ブランチを食べてからカフェで読書をするのが真尋の休日の過ごし方だった。なんの本を持っていこうかと考えながらレジに向かっていると、後ろから声をかけられた。

「真尋さん!」

 振り向くと、そこには晃が立っていた。カゴに食材をたっぷり入れている。料理好きなのは嘘じゃないらしい。

「あ……」

「奇遇ですね」

 人懐っこい笑顔で小走りに近づいてくる。ちらりと真尋のカゴの中に目をやって、すぐに視線を戻した。その一瞬が妙に素早かった気がしたが、考えすぎだろう。

「お買い物ですか?」

「……はい。すこし」

「真尋さんはいつもこのスーパーで?」

「まあ、うちから近いんで……」

「そうなんですね。俺も最近はここで買うことが多くて」

 晃はうれしそうに終始ニコニコしている。晃は、こんなに笑う人だっただろうか。バーで会ったときはもっとクールな印象だったのに、メガネをかけた休日の晃は、妙に親しみやすい。仕事のときの姿とのギャップがありすぎる。

「一ノ瀬さんのカゴ、すごいですね。食材ばっかり」

 つい目に入ってしまった。鶏肉、根菜、調味料。明らかに「作る人」の買い物だ。

「料理するの好きなんですよ。誰かに食べてもらえるとなおうれしいんですけどね」

 さらっと言われた言葉に、真尋の耳がじわりと熱くなった。それは俺のことか。いや、一般論だろう。きっと一般論に決まっている。

「あっ、昨日の差し入れ、ありがとうございました。おいしかったです」

 言った瞬間に後悔した。メモに書いたから直接言わなくてもよかったのに、つい口が滑った。

「よかった。口に合いました?」

「はい。特に筑前煮が……」

 晃の目がぱっと輝いた。それを見て、真尋は慌てて視線をそらした。

「じゃあ、俺これで」

「はい。失礼します」

 ぺこりと頭を下げてレジに向かう。会計を済ませてスーパーをでると、五月の夜風が火照った頬に気持ちいい。

 ……別にいいけど。お礼を言っただけだ。

 マンションに戻ると、またドアノブに紙袋が下がっていた。

 晃からの差し入れだった。二回目だ。今回の中身は洋食で、トマトのマリネサラダ、ジャーマンポテト、タンドリーチキン。メモはまた同じ「作りすぎたので。よかったらどうぞ。一ノ瀬」。

 スーパーで会ったのに、いつ作ったのだろう。あの食材の量を見れば確かに「作りすぎ」はあり得るけれど。

 部屋で容器を開けると、タンドリーチキンのスパイスの匂いが広がった。ひとくち食べて、思わず目を閉じる。おいしい。悔しいくらいに、おいしい。

 今回も全部、真尋の好みの味付けだった。

 翌日の休みは、予定通りカフェで読書をした。目黒川からすこし入った路地にある小さな店で、真尋はここのソファ席とコーヒーが好きだった。深煎りのブレンドを頼んで、文庫本を開く。

 三十分ほど読みふけっていると、ドアベルが鳴った。

「あれ?」

 聞き覚えのある声。顔を上げるまでもなく、もうわかっている。

 晃だった。今日はスーツ姿で、前髪をかき上げたスタイル。コンタクトを入れているのか、いつものメガネはない。仕事の日の晃は、隣人の晃とはずいぶん雰囲気が違う。シャープな顎のラインが際立って、バーで初めて会ったときの第一印象が蘇った。

「真尋さんもここ、くるんですか?」

「……どうも」

「本当に偶然ですね」

「はあ……」

 真尋は曖昧に返事をして、本に目を落とした。文字を追うが、内容が頭に入ってこない。視界の端で晃がカウンター席に座るのが見えた。

 このカフェはマンションから近くない。最寄り駅からも外れた、知る人ぞ知るような場所だ。真尋がこの店を見つけたのは二年前で、それ以来ずっと通っている。晃の職場がこのあたりなのかもしれない。だが、それにしたって、よりによってこの店に。

 ……いや。考えすぎだろ。東京は狭い。

 晃はカウンター席でエスプレッソを頼み、スマホをいじっていた。真尋のほうをちらちら見ている気配がするのは、気のせいだと思うことにした。

 結局、そのあと一時間近くいたが、晃が話しかけてくることはなかった。ただ、真尋が席を立つとき、「いい休日を」と一言だけ声をかけてきた。その声がやけにやさしくて、真尋は「ども」としか返せなかった。

 その翌日の朝。

 真尋はその日、遅出のシフトだった。十時ごろ、出勤前にゴミを捨てに、ゴミ置き場に向かう。

「おはようございます」

 背後から声をかけられて、肩がびくっと跳ねた。

「また偶然ですね」

 振り返ると、晃がニコニコとゴミ袋を手に立っていた。今日もスーツ。出勤前らしい。ネクタイを締めた姿はやはりメガネのときとは別人のようだ。

 真尋の遅出のシフトと、晃の出勤時間が重なったのだろう。隣に住んでいればゴミ出しで遭遇するのは不思議ではない。

「……おはようございます」

 挨拶だけ返して、足早にゴミを置いた。

「いってらっしゃい」

 晃が後ろから声をかけてきたが、真尋は振り返らなかった。振り返ったら、また笑顔を見てしまう。見たら、また心臓がうるさくなる。それがわかっているから。

 ゴミ出し、スーパー、カフェ。さらに差し入れは二回。こんなにも「偶然」が重なるものだろうか。胸の奥に小さな違和感が芽生えはじめていた。

 けれど晃の笑顔を思いだすと、疑う気持ちがしぼんでいく。あの人懐っこい顔で悪意を抱いているとは、どうしても思えなかった。

 それに――正直に言えば、毎日のように晃と顔を合わせる生活は、悪くなかった。半年間、響のことばかり考えて過ごしていた日々に、別の色が混ざりはじめている。容器を返しに行ったとき、晃の部屋から漏れていたあたたかい光。あの光を思いだすと、胸のどこかがゆるむのだ。

 認めたくないけれど。

 仕事から帰ると、今日もドアノブに紙袋。三度目の差し入れだった。中身はパスタソースとバゲット。メモには「休日のお昼にどうぞ。一ノ瀬」。

 ……なぜ明日が休みだと知っている?

 一瞬そう思ったが、シフト制の書店員が不定休なのは推測できる。たまたまかもしれない。真尋は深く考えないようにした。

 次の休み。プラスチック容器がたまってきたので、まとめて返しに行くことにした。二回分の容器を洗って紙袋に入れ、晃の部屋のインターホンを押す。

 今度は反応があった。ドアが開くと、メガネをかけたTシャツ姿の晃が立っていた。すこし髪が乱れていて、料理の途中だったのか袖をまくっている。背後からカレーのいい匂いが漂ってくる。部屋の奥にはキッチンの明かりが灯っていて、鍋がコトコトと音を立てているのが見えた。

「あ、真尋さん」

 晃の顔がぱっと明るくなった。仕事姿のときのクールな表情とは違う、無防備な笑顔だった。

「これ、容器。ありがとうございました、毎回おいしくて……」

「わざわざ洗ってくれたんですか? すみません、そのまま返してくれればよかったのに」

「いえ、当然なんで」

 紙袋を渡す。指先が一瞬かすめて、真尋はさっと手を引いた。晃の指は長くてきれいだった。説明するときに、その指をよく動かすのを真尋は覚えている。バーでの本の話のとき、夢中になると身振りが大きくなっていた。

 晃の部屋の中から漏れる光があたたかい。カレーのスパイスに混じって、どこかやさしい匂いがする。柔軟剤だろうか。ふわりと鼻をくすぐるその匂いに、なぜか覚えがあった。

 ――あれ。これ、俺が使ってる柔軟剤と同じ匂いだ。

 気づいた瞬間、心臓がとくんと跳ねた。偶然だ。同じ柔軟剤を使っている人なんていくらでもいる。

「よかったら、カレー食べていきます? ちょうど作ってるところで」

「あ、いえ、大丈夫です。それじゃ」

 逃げるように自分の部屋に戻った。ドアを閉めて、背中を壁に預ける。

 心臓がうるさい。

 ……なんだよ。ただ容器を返しただけなのに。

 壁の向こうから、かすかに鼻歌が聞こえた。最近すっかり聞き慣れてしまったメロディ。晃の生活音が、いつの間にか真尋の日常のBGMになっていた。

 その事実に気づいて、真尋は自分の頬を両手で挟んだ。

 昼休み、颯太に電話をした。書店のバックヤードで弁当を食べながら、この一週間の出来事を話す。

「あのさ、例の隣の人と、毎日のように遭遇するんだけど」

「毎日?」

「ゴミ出しとか、近所のスーパーとかならまだわかるんだけどさ。俺の行きつけのカフェにまでいたんだよ」

「……その隣人、やたらお前と遭遇するな」

 颯太の声のトーンが変わった。IT企業でマーケティングを担当している颯太は、パターンの異常に敏感だ。

「だろ? でも毎回自然なんだよな。嫌な感じもしないし」

「お前、毒気を抜かれてるだけだろ」

 颯太の声が、すこし真剣になった。

「それとさ、差し入れがすごいんだよ。手料理。しかも毎回俺の好物なんだ」

「は? 好物ってお前、何回もらったの」

「三回」

「三回? しかも全部好みに合ってんの?」

「……うん」

「考えすぎだろって言いたいけど、それはちょっとできすぎてないか」

 真尋は「考えすぎだって」と笑い飛ばそうとしたが、声がうまくでなかった。自分でも薄々おかしいと思っている。ただ、それを認めてしまうと、あのおいしい料理も、あたたかい笑顔も、全部なにか別のものに変わってしまいそうでこわかった。

「でさ、その人っていつ引っ越してきたんだ?」

「えーっと……二か月くらい前かな」

 電話の向こうで、颯太が息を呑む気配がした。

「お前が高城と別れた直後じゃないか」

「……え?」

 その一言が、胸の奥に小さな棘のように刺さった。

 高城と別れたのは半年前の十一月。晃が隣の部屋に引っ越してきたのが、確か三月の終わりごろ。時期はすこしずれている。直後とまでは言えない。

 けれど颯太の声には、冗談で済ませられない鋭さがあった。

「考えすぎだろ」

 真尋はそう言い返したが、電話を持つ指先が冷たくなっているのを感じていた。

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